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エジプト・トルコ旅行記2005
12月3日(土)第1日 家族みんなに松茂のローソンまで見送ってもらい一路バスにて関空へ向かった。カイロ行きMS963便14時発の2時間前の12時には関空に到着し,団体受付カウンターで搭乗手続きを済ませた。12時20分より同じツアーの打ち合わせが始まり,出発は定刻ということを確認して銀行へ向かった。徳島でUSドルに両替はしていたものの,パック仕立て($200×2+$100)のものだったので,必要と思われるドルの少額紙幣1ドルが少ないと感じたからである。念には念をということで郵貯カードを海外でも使えるよう設定は行っていた。エジプトポンド・トルコリラについての両替は日本では出来ないのである。出来るだけ1ドルが混ざる設定で両替を行った。(1ドル紙幣のみの両替はしてもらえなかった。)なぜ1ドル紙幣を必要としたのかというと「チップ」という日本人にはなじみのない文化?制度?のためである。日本円の少額紙幣といえば1000円となる。海外で流通していない日本円の硬貨ではチップとしての効果がないのである。100円札が今あれば,非常に便利な通貨となろう。1ドルは120円前後の価値である。現在ではとても便利な通貨となっている。カイロやトルコではUSドルがそのまま流通している。日本円もそのまま使る。(カッパドキアでは100円と50円硬貨まで使ってしまった。)
 
関空では1ドルをかき集めた後,出国審査を受けたが,金属探知器に引っかかり靴まで脱がされたが,後はスムーズにターミナルへ向かうことが出来た。審査は数年前よりゆるくなっているようである。ターミナルではもう一つ仕事が待っていた。カイロはイスラム圏であるためアルコールが手に入れにくいと聞いていたのである。これから乗り込むエジプト航空もアルコールのサービスはむろん無い。軽くてアルコール度数の高いものを探すことにしていたが,求めるものはすぐに見つけることが出来た。500MLペットボトルのウイスキーを発見したのである。早速バランタインとジョニーウオーカーの黒を2本購入した。ついでにオリオンビールも見つけたので赤ワインと共にすでに手中のものとなっていた。ツアー客はといえばやけにご老人が多い。「保険金獲得ツアー」ととっさに妻に電話を入れる。昼ご飯におにぎり一個とビールを一杯ひっかけて,いざ機中へ。
 中はすいていて真ん中の4席を独占できるほどであった。手に入れたアルコールのウイスキー以外は機内で消費することに決め飛び立つやいなやビールの1本に手をかけていた。夕飯まで時間がありそうなので持参した地球の歩き方等でカイロやトルコを詰め込み勉強することにした。夕食時早速添乗員?としての仕事が舞い込んできた。同じツアーらしき老夫婦の食事の通訳である。食べ物とドリンクを頼んだ後は何事もなかったので?日本語で押し切っていたように思われる。食事の後は映画を2本と勉強を少々(必要なかったのであるが・・・)水割りと共にすごしていた。カイロに着くまで寝ないつもりでもあったからである。後から聞いた話だが私の周りはウイスキーの臭いが漂っていたらしい。道理でフライトアテンダントからは冷たい視線をいただいたわけである。
 15時間の後,飛行機は無事カイロ空港へ到着することとなった。どこか雑っとした税関,そうサンチャゴの空港を連想したが,それよりすごかった。入国審査の場に外部からのツアーアシスタント達がひしめいていた。考えられないが,これがカイロでの当たり前なのだろう。エジプトポンドを持っていなかったのでATMで現地通貨を初めて引き出した。使うのは初めてで直感による操作だったが無事現金をゲットすることができた。しかし,問題が。小額紙幣でなかったため両替に四苦八苦するはめになるのである。空港の銀行でもだめ。ホテルのフロントでもだめ。翌日の土産物店で絵はがき購入の際初めてスモールチェンジできたのである。たった300ポンド(約3000円)を引き出しただけなのに。なぜ小銭にこだわっているのかというと有料トイレに入れないのである。1000円払うのなら我慢するでしょう。1ドルでもいやだよね。誰でも。この日はホテルまで実際我慢した。
 23時に空港からホテルに向かって出発。入室と同時にバスタブへお湯を張り始めると共に,バスの中で購入した(現地ガイドの副収入になるのかな?)水でウイスキーを割り,飲み始めた。長い長い1日の終わりである。時差の分だけ長い1日を体感した。(飛行機の中で眠ればいいのに)暫くすると一人で眠るには広すぎる部屋とベッドを前にしている自分に気づく。部屋の明かりを見ながらいろいろな思いにのめり込んでいく。 浅い眠りのまま2日目に突入。

 12月4日(日)第2日
 バイキングの朝ご飯をたらふく食べ,絵はがきを買いに売店へ。しかし,切手までは買えずじまい。連泊で同室ということで部屋の片付けは二の次にはがきを2年生の子どもたちに出発の時間まで書き始めた。今日はギザのピラミッドを訪れる。途中カイロ市内を通るが天候のせいもあり街のイメージが暗い。お墓の上に家を建てて暮らす人々や無計画に立ち並ぶ日干し煉瓦の町並みを垣間見るや悲壮感に襲われた。ギザに入っても川はゴミだまりが目立ち,歴史の重みなんて感じられるはずもなく,ただ貧困の様子が想像されるだけであった。天気がそんな気持ちを助長したのかもしれないが。
 それでも建物の間から見え隠れするピラミッド達には心惹かれるものがあるにはあった。バスから降り立ち見上げるピラミッドには重厚さを感じた。しかし,直ぐさま観光客に近づく土産物売りや得体の知れない人々。クフ王のピラミッドの周りを歩いているときに手渡されようとしたガラス玉「プレゼント」という声に握りしめていたらどうなったのか?友だちになれればいいのだろうが・・・。「写真を撮ってあげよう」と近寄ってくる警察官。断ると子どものためにボールペンをくれという。「バクシーシ」「バクシーシ」ひつこくつきまとわれるが,相手にしないのが分かると立ち去っていく。相手はマシンガンをぶらさげているのでとても怖い。あるモスクでは十四五の少年がそうしていた。愛らしい少年だった。バスの止まった丁度反対側に太陽の船を展示した博物館がある。時間がない。ツアーのどうしようもないことの一つに,どんなに気に入った場所でも決められた時間を守らないといけないということがある。どうしても見たかったのではあるが,あきらめることにした。他のツアー客に迷惑をかけてしまう。10分でピラミッド1周が写真を撮りながらのタイムリミットだった。ギザには3つの大きなピラミッドが残っている。小さなものは多く点在していた。真ん中の化粧石がトップ付近に残っているピラミッドに入ることが出来た。カフラ王のピラミッドである。中は人いきれか湿気が多く,汗をかいてしまうほどである。緯度的にはカイロは日本の屋久島辺りだと聞く。外は日本の初冬の肌寒さを感じた。写真撮影は禁止されていた。滑り止めの付いた板敷きの狭い通路を下に降りたり,上がったりしながら,行き止まりの小ホールへたどり着く。なんの説明もないのでガイドブックを思い出しながら,自分に解説していく。すれ違う異国の異人達に多生の縁を感じながらもピラミッド内部を後にした。
 その後,小高い丘の上に着く頃には朝の霧は晴れ,青空の下にピラミッドを拝むことが出来るようになった。サハラ砂漠の中の写真で見るピラミッドである。砂漠地帯で霧が出るなんて想像もしていなかったのである。ピクチャースポットには露店が多く,民族衣装を着た老人に,ボールペンをせがまれた。日本のボールペンは人気があるのです。商売が出来そうな雰囲気でした。サハラ砂漠の砂を採取した後は昼食である。いや,その前にパピルス製造直売店へのお礼参り?(ツアーには必ず着いている)があり製造工程についての説明は以前中村さん宅を見学したときの「パピルスは紙じゃない」という言葉の合点がいった。買おうか買うまいか迷った挙げ句,交渉の仕方によっては値段がグッと下がるということが分かり,ジェットラグとの相乗で面倒くささが募り,買うのをやめた。
 さて,昼食はエジプトの鳩料理とやらを食わされた。家族には止められていた。インフルエンザが怖いから・・・同席は男性単独参加4人組。いろいろ質疑応答が繰り返されたがお互いの職業については証さないものなんだ。私も決して証したくない。サッカラビールは5ドルもとられた。イスラム圏でビールが製造されていること自体おもしろいのだが,外貨獲得のアイデアなのか?エジプトの物価からしても高すぎる。昼食と夕食の飲み物は半強制的で,何か作為のようなことも感じられる。ビール1杯5〜600円,日本なら当たり前なのではあるが。ツアーでは世間相場を把握することが難しい。午後からは,オプショナルツアーが組まれていたが,団体行動が苦手な我が輩は迷わず自由行動を選択した。自由行動といっても制約付きで,話を聞いているだけでうんざりする程だった。カイロ市内を散策することを楽しみにしていたのに夕食の時間が1時間早まったこともあり,その願いは叶わなかった。それならば,現地相場の把握をと近くのスーパーに出かけることにした。歩いて20分の距離をタクシーを使わされた。ホテルマンが行き方を教えてくれなかったのである。タクシーを止めてくれたがチップは当然払わなかった。帰りは当然歩いた。
 スーパーは大きい割に客が少なく品揃えも豊富で値段を確かめながら散策するにはもってこいのものだった。しかし,ビールはどこを探しても発見することは出来なかった。文房具売り場の中にお土産に出来そうな物がいっぱいあった。パピルス風のメモ用紙や切手・コインなどを買い求めた。その他にアラビア語で書かれたお菓子やゼリーのたぐい,それに忘れてはならないペットボトルの水。大失敗はメイドインチャイナの金の置物であった。水については実際に水道水は飲まなかった。少し濁りがあったからである。生野菜やカットフルーツ類については口にした。周りのご老人達は情報が入っていないのかパクパクやっていたが,別に何の変化も見られなかった。季節的によかったのかな。夏に訪れた人の話では食中毒を引き起こした人は少なくなかったという。買い物袋を両手に提げ,現地の人かのように,信号はあっても作動していない道路の横断に取りかかったが,その成功まで数キロメーターの道のりを要するはめになった。10メーター近くある中央分離帯の上をひたすら歩いた。立体交差もありホテルまでの道程は,やま感である。道に少し迷ったが6時過ぎにホテルにたどり着くことが出来た。運動不足は解消された。買い物の整理と絵はがき書きに夕食までの時間をあてた。
 夕食はナイル川クルーズである。少しリッチな気分に浸れそうな気がした。そこで隣り合わせたのが札幌のご夫婦とダブルみかちゃんである。同じツアーとはいえ初対面に近くあまりつっこんだお話も出来るはずもなく・・・ただ,ベリーダンスに興じた。カイロ中心部の夜景とダンスを見ながらの夕食は2時間で終了。ホテルについてトランクに荷物を整理し,水割りで口を湿らせ,明日に備えた。明日はイスタンブールに向かう。ギザのピラミッドのナイトショーに行きたかったな。

 12月5日(月)第3日
 昨日と同じようにバイキングの朝食をたらふく食べた。今日はモハメドアリモスク観光後イスタンブール・寝台特急でアンカラへと向かう。ハードな1日を覚悟した。朝から天気も良く昨日と同じルートにもかかわらず感じがとても違っていた。モスクも外からと内に入ってみるのとでは雲泥の差があった。内側はとてもきらびやかであった。美しい。外に出るやパピルスもどきの土産を売るお兄さんにつかまった。セキュリティもやってきてくれ,12枚が1000円となったもののバス近くでは30枚1000円だったという。これを欲しがっていた元同僚もいたので,ためらわず買ってしまったのが失敗の元となってしまった。
 セキュリティについてであるが,エジプトツアーには必ずと言っていいほどついている。面白い兄ちゃんでバスを降りたときから世話になった。腰にはショートマシンガンを下げているのではあるが,私が持ち込み禁止の物品を多く持っていたことから添乗員共々から要注意人物?としてマークされた。カメラの三脚とウイスキーが持ち込み禁止物だったらしい。三脚は他の人の邪魔になる?アルコールは宗教上許されないのかな?と思いつつ,ポケットにも1本の飲み残しが入っていることに気が付いたが,こちらはノーチェックだった。イスラムのモスクにアルコールを持ち込んだ数少ない日本人の一人かもしれない。 拓人お勧めの髭はほめてくれたが,ジプシーみたいだとけなされた?が,2日目くらいから日本人離れが始まっていたらしい。どこの国を訪れても日本人だと言われることは希である。チリではペルー人。アメリカではプエルトリカンやフィリピン人。シンガポールでは香港人といわれ地球人かな?なんて自分で思っている。
 モスクからはカイロ市内を十分眺めることができ,しっかり景色を脳裏に焼き付け,カイロ空港へ向かった。2時発の便で機内食でお昼と言うには少し遅すぎる。旅行会社も考えたものである。黄昏時にイスタンブール空港に着陸。「飛んでイスタンブール」という歌が頭を駆けめぐる。空から眺めたイスタンブールは美しかった。モスクの観光を予定していたが,日没となってしまい後日に回されてしまった。無理な計画であったように思われる。市内をバスで走るが帳もおり,どこをどう走っているかのさえ見当も付かず,もったいない時間を過ごした。個人的にはローマ水道で降りてそこをじっくり見たかった。夕食はケバブ料理だった。昨日同席したダブルみかちゃんとまた同じテーブルを囲んだ。2日目ともなると話は仕事に及び教員であることを証してしまった。彼女らは100%信じていないようではあった。夕食後,夜行でアンカラまで向かうことになっているのだが,どうも連絡が悪すぎる。何もないようなところで2時間待ちなのである。そこで駅周辺の散策に出かけた。周りの様子がだんだん分かってくる。だんだん面白くなってくる。もっと突き進みたいのであるがそこはツアー,辛抱することにする。キオスク?で缶ビール2本と水を仕入れ夜汽車の旅へと出発した。親子連れ2名迷子。別の車両に乗っていたのを確認していたので添乗員に連絡。いろんなことが起こるね。トルコの夜景や夜空を眺めながら一人酔って瞑想に耽っていた。車窓の月と星のトルコのトレードマークは,とても雰囲気にマッチしていた。いつの間にか,ほどよい揺れと酔いに眠気を誘われ,心地よい眠りに陥っていた。

 12月6日(火)第4日
 朝起きたのは空が白み始めた頃である。缶ビールと飲みかけのウイスキーは当然空っぽになっていた。急にベッドメイクに1ドルも払うのだろう?という疑問がわいてきた。たいした仕事でもないのに。ただ,せもたれをたおすだけなのである。これまた,ツアーの評判を上げるための材料なのだろうと一人納得する。チャイの朝食を期待してビュッフェへ。日本人は誰もいない。(5時くらいから来ていたという。老人ツアーだけ在って朝が早い!)
 外国を満喫しながら朝食を取り始めたが,パンの出し方にびっくりした。ビニール袋の中から手の先につばをつけながら摘みだし,皿に盛りつけてくれている。すごいものを見てしまった。おまけに私の食べ残したものをそのビニル袋の中へ。添乗員がコーヒーだけをオーダーするはずだ。7時過ぎにアンカラに着く。駅前は朝早いこともあり閑散としている。非常に寒い。駅前には流石にサッカー競技場が目を引く位置にそびえていた。三菱ふそうのバスに乗り込みカッパドキアへ向かう。早口の現地スタッフの丁寧すぎる解説を聞きながら。途中休憩場所ではカッパドキアの解説本を購入したり,日本の家族へ電話をかけたりした。トルコの塩の75%とを産出するというエンコにも立ち寄り,その水の青さに感動を覚えた。本当に開発の手が届いていない人間と自然の共存する大地の中をフリーウエイ?が時の流れを運んでいるといった感じさえした。ずっと走り続けていたい。遠くには富士山に似た山が顔を見え隠れさせながら私を見ている。点在する家々には必ずポプラが植えられている。バスはフリーウエイを外れ田舎道へと入る。町並みが現れた。そこが地下都市を有する街であった。地下都市の見学は他のツアーとも重ならず,ゆったりと時間をかけたものとなった。どの観光地もそうであってほしい。(途中から他のツアーと時間調整をしていた。昼ご飯が2時になった。)なぜ?地下に・・・感想はそれに尽きる。遮蔽の為の蓋さえある。地下都市を出て露店を通り抜ける。散策したい気分を押さえつつ,バスにたどり着く。10分くらい走り奇岩をくりぬいたレストランで昼食をとる。(ここで買ったワインがワインビネガー化していた。非常にに残念。それも2本後生大事に片時も離さず日本まで運んだのに・・・後の祭りというのか?)
 黄昏時のカッパドキアをあっちこっちとバスは走る。本当にゆっくりバイクにでも乗って,気に入ったところで止まり,じっくり見てみたいと思った。途中の土産物売り店で「わたしもトルコで考えた」のなかに出ていた石膏作りのカッパドキアの置物を発見。交渉の結果,日本円で5個500円でゲットすることができた。50円混じりの硬貨での支払いに文句も言わず店主は受け取ったが・・・その後ツアーはお決まりのように買いものツアーへとスムーズに変身する。トルコ絨毯の製造直売工場へ。糸の取り方から織り方まで製造工程を解説してくれる。我が家には玄関マットがない。バスマットでの代用であった。中国の緞通を考えたこともあったが決めきることができなかった。ぜひ,手に入れて帰りたいとは思っていた。相場はシルクで1000ドル12万と踏んでいた。大きなものには目もくれず,小さい物の物色を行った。現地スタッフの力も借り?(桜かもしれないが)20万が12万位になった。渋っているといろいろ持ってきてくれる。千一夜物語と家族愛をモチーフにした2枚が気に入った。2枚買うつもりではなかったが,2枚で20万というので,両方買ってしまう。買っても執拗に大きい物を勧めてくる。気に入った物が買えた。それで満足。
 帳も降りた頃バスは奇岩をくりぬいたホテルへ到着した。夕食にラクをオーダーするが歯磨きくさくて「アブサン」に似ていた。その後ビールに切り替えた。食べたものについては記憶にない。部屋は一人で寝るには広すぎる。2部屋あって家具はアンティーク。キャンドルまで点いていてロンリィチック?夜はゆっくり無の時間を過ごすことができる。日本なら寝るまで時間に追われている。少しはリフレッシュになっているのだろうなと思う。微妙な空気の流れに身をそよがせるキャンドルライトの中で静かに眠りについた。

 12月7日(水)第5日
目覚ましも無いのによく起きられるものである。朝日を撮りたいなと思い屋上まで上がる。ホテルの中は迷路で,屋上にたどり着けた時にはちょっとした喜びを感じた。ご来光を見るための熱気球であろうか?10機ばかりが空に上がっていく。あいにくご来光はたの奇岩によって妨げられる形となった。でも,カッパドキアの朝を地上の場において独り占めしている感は強く,気持ちがスーっとした。朝食をとりにいくと私が最後らしく他のツアー客はいない。フォーリナーばかり。アンカラエキスプレスの朝食の時とやっと外国を味わった一時である。一番最後にバスに乗り込む。
 エピソード1の始まりはじまり・朝1番の観光にギョメレのキノコ状の奇岩見物に出かける。10分しか無かったので出来るだけ高く,出てきたばかりのお日様に邪魔されないように写真を撮りたいと思いひらすら歩いた。途中土産売りの小屋(そこで生活しているのかもしれない)でかわいい毛むくじゃらのうさぎと出会う。ビデオにすんなり収まった。拓人に借りた靴の跡も残しておきたいと思い他の観光客が足を踏み入れないであろう場所にくっきりとやってきたという証拠を残してきた。時間が気になりバスまで戻ることにしたが,途中数人の同じツアー客がいたので,土産の物色にかかる。 魔よけの飾りを5つ買って20リラ。20リラ出すと,100リラ持っていないかと聞かれる。おかしいな?と思いつつ,持っていないと答えると50リラは持っていないかと聞き返してきた。持っていると答えると両替してくれと言う。50リラ出すと50リラ分20リラ2枚と10リラ1枚出してくる。別に30リラおつりとしてくれれば問題ないのであるが,不自然さが引っかかった。20リラ払いおまけの目玉を1つもらいその場を後にした。バスに乗れとせかされお得意の買いものツアーへと誘ってくれた。
 妻の誕生月が12月であり,トルコ石をトルコで是非求めたかった。かわいい石を2個みつくろった。あまりに小さいお礼の品ではあるが,一生懸命選んだので許してほしい。店員と世間話もしトルコ人には蒙古斑があることも判明した。ウラルアルタイ語族:同じ先祖を持つ人種となるのかと思うと不思議な気がした。どこでも何か買ってるおじさんというイメージがツアーの中に広まった?必用な物だけしか買っていないのであるが・・・ その後カイセル空港へ。郵便局を苦労して見つけトルコの切手を入手。飛行機待ちの時間子どもたちへはがきを書く。再びイスタンブール空港へ。イスタンブール観光は地下宮殿・ブルーモスク・エジプシャンバザールといった具合だった。自由行動のエジプシャンバザールでTシャツを購入しようと思い20リラを出すと「偽札」だという。説明をうけ,他の紙幣で支払う。その店ですり替えられた可能性はあるものの,ギョメレの事件がより可能性が高いように思われる。高い買い物をしたのか?偽札をつかまされたという経験を重視するか?旅ってそんなところが面白いのかもしれない。
 その店の兄ちゃんにトルコ土産のお勧めを聞きトラディショナルスイーツにきめたが,あまり評判は良くなかった?集合時刻に15分ばかり遅刻,偽札事件を報告。みんな納得してくれる。そんな事件にも無関係でツアーの工程は勧められる。本日2件目のおかいものツアーである。そこは皮製品のお店だった。ここでもエピソードが・・・エピソード2と名付けることにする。本日のお買い物は,魔よけの置物と妻へのトルコ石(彼女の誕生石なぜか持っていなかった)エジプシャンバザールでのお買い物(偽札の判明)で終了。他の物は必要なかった。
 ツアーとしてはスポンサー料を稼ぐためなのかレザーの専門店へ。そこでも,どこの店もがそうであるかのように日本語の堪能なスタッフが,存在する。どこの店にも日本語を理解しようとするスタッフがいる。客である私から日本語を盗んでいるのがありありである。そんなところは日本人も盗まないと。レザー店ではファッションショーを見せてくれるという。買う気はなかったもののお付き合いという気持ちで同行する。一通りのショーを見学。突然べっぴんさんからご指名がかかる。ショーへの参加要請である。しかたなしに,他のツアー同行者へのサービスも兼ねて,出てあげることに。着せられた衣装は派手なパッチワークのロングレザー。無事ショーを終えた。同行の西中の(名前は忘れてしまった)おじさんが私のカメラで写真を撮っていてくれた。自分のカメラで撮らないところがなんともいえないが。その後,明日からボスポラス海峡トンネルの仕事に就くという従業員につきまとわれたが,嫌いなタイプの人間だったので,何も買わなかった。それでよし。
 イスタンブールでは割と高級そうなホテルへ入った。部屋をなぜか替われと言う。言われるままに替わったが,端の部屋で景色も良かった。いろんなハプニングに見舞われた私への配慮なのだろうか?一人ではもったいない部屋であった。風呂につかり,夜のイスタンブール散策へ。コンラッドホテルの近くにセブンイレブンがあるという情報で,そこへトルコのお菓子を仕入れる目的で出かけた。外国に行けば歩けるところならどこえでも行きたいタイプなのでホテル周辺の探索も兼ねることにした。1時間ばかり散歩した後セブンイレブンで目的の物を仕入れたが5000円の買いものに対して地元の人が喜んでくれた。お菓子の類ばかりであったから(馬鹿にしたのかもしれない)いろいろ言葉を交わすことが出来た。英語であった。土産物は近くのスーパーが一番。チリに行ったときも,マルセイユに行ったときもそうした。いっぱい買うと会話が生まれる。安上がりの上にコミュニケーションがとれるのは嬉しい。籠いっぱいのトルコ製品を仕入れホテルへ。明日は半日の自由行動が待っている。自由行動が楽しみなのに,カイロでは制限された。イスタンブールでも制限されそうだが,明日は歩きまわりたい。夕食の後スタンドショップで買い込んだ新種のビール2本と水割りをチビチビ行きながら,寝むりについた。街の明かりを楽しみながら。話は戻るが夕食のボーイに楽しい子がいた,ビールを頼むと売り切れだと私を手勝ってくる。私も偽札で手勝った。トルコアイスのスタンドではどこかで見たようなタレントさんが・・・何か長い長い1日のように感じられた1日だった。

12月8日(木)第6日
ゆっくり,ゆっくり,いつものように一番最後に朝食を取る。荷造りを確認の後,ダウンタウンへ歩きを決める。街のいろんな所を見てみたい。そのスタイルは性分なのだろう。どこでもよく歩いた記憶がある。ドイツで山登りもしたし,イギリスでは蚤の市を求めて徘徊し,シンガポールでは道に迷って妻の元へ電話まで入れた。ニューヨークをぶらつくのもお気に入りだし,パリの街も拓人という子分を引き連れ,歩きに歩き回った。マルセイユでもしかり,シドニーでは1日中歩き通した。そうすることが一番街を知ることが出来る。地元人とのコミュニケーションもとれる。ホテルを出て坂道を下り海岸へ出る。船の出入りを眺めながらトプカプ宮殿を目指して歩く。ウインドショッピングも面白い。釣り道具屋が目に付く。ストリートカーは乗り方が分からなかったので乗るのを控えてしまった。若い頃はすんなり乗っていただろうに。若気の至りを信じていたのだろう。年いたんかな?ガラタ塔を間近にするやすぐガラタ橋にたどり着いた。地図の縮尺はいいかげんであった。2時間はかかるとふんでいたのに,50分で着いてしまった。ガラタ橋は2層構造で1階部分はレストランになっていた。橋のたもとや上からは釣り糸をたれる太公望達が昼間から大勢たむろしていた。魚の名前を教えてもらいながらコミュニケーションを図った。渡りきった所にも商店街が存在し,東京の下町的雰囲気を味わった。今日の目的の一つに郵便局で切手を買うことがあった。いろんな人に聞いたが辿り着くことが出来なかった。どこの国を訪れてもその国の記念切手を手に入れることにしていたのである。一つの目的が達成できなかったので,次の目標に移るわけであるが,その途中土産物屋でモダンな魔よけを発見した。一度は通り過ぎたものの,また引き返し店員と交渉を始めた。持っているお金は例の20リラと10リラである。10リラはホテルまでのタクシー代である。10リラの魔よけを3つと8リラの物を1つで30リラになった。現金が無かったので銀行でおろしてくる。と伝えると,彼はわざわざ銀行まで案内してくれた。道々ここら辺で一族が商売をしていることや自分の夢を語ってくれた。購入後従兄弟が経営しているホテルへこいというので誘われるままについていった。イギリスへ自転車で向かっている結城?さんという初老の日本人も滞在していた。従兄弟は日本語が堪能でいろいろ話が弾んだ。偽札にはすごく悲しんでいた。国家の恥的な物だから捨ててくれ,なんても言われたが,その気持ちはとっても分かるが私にとっては思い出の一つだ。チャイをご馳走になりながら,トルコのおもてなしって本当なんだと実感した。話し込んでいると私の知人を知っているという。本当にアメージング?木沢の温泉まで来たことがあるという。話し込んでしまいトプカプ宮殿に行くという目的は消え去ってしまった。おまけにお昼までにホテルに帰れるかどうか微妙な時間となってしまった。お抱えだというタクシーを呼んでもらいホテルへ向かう。12時までホテルの部屋が使用可能で朝出したはずのスーツケースが運んでもらえず,この時間までに帰れと指示を受けていたのである。出発は12時45分。12時過ぎにホテルに到着した。だいぶタクシーも急いでくれ面白かった。ホテルにタクシーが入るのに厳重なセキュリティチェックがあった。これのほうにびっくりさせられた。12時45分予定通りホテルを後にし,レストランへ向かった。昼食場所はオリエントエクスプレスの舞台となった駅である。食べ物については写真を撮らなかったのでどんな物を食べたのか覚えていない。イスタンブール空港で添乗員と現地ガイドにはさんでもらい記念撮影をし,別れを惜しんだ。カイロ空港の免税店は数に限りがあったのでお土産のたぐいはここで仕入れることにした。学校への土産とペットボトルのカミユのエクストラ2本を買い込んだ。その上に搭乗までにウインドショッピングでだいぶ時間を潰さなければならなかった。乗った飛行機も機内でのサービスが悪く,エジプト航空はエールフランスの次に良くないと私の中で順位付けすることが出来た。カイロ空港ではスーツケースは開けさせられるし,良くないモードに・・・。でも,グループツアーで助かった。我が輩のスーツケースは土産の重さが加わり,20キロを優に超えていたからである。ホテルまでの間,数組の結婚式を終えたカップルに出くわし,気分はだんだんハッピーに。最後の夜だと言うことで打ち上げをということになったが,参加者は3人。しかし,添乗員からいろいろ話を聞くことが出来かえって良かった。このツアーで一番若いのが彼女である。若いのによく自分をコントロールしている。サッカラビール3本で打ち上げを打ち上げた。帰国の準備を整え,眠りについた。明日は,いや,今日は最終日。

12月9日(金)第7日
 取れるだけ取った朝食のバイキング。おなかを壊さない程度に。そばに座った同じツアーの宗男さんによく似たおじさんが,びっくりしていた。今日は朝から暑そう。昨日は27度あったという。半袖で出かけることにした。カイロ博物館へ向かう。空は青空,道路もすいていて今までの雰囲気とは違う。明るいカイロを感じた。カイロのダウンタウンへ向かう。カイロ駅の前にはアスワンから運ばれた石像がある。そんなんゆっくり見たいのに。お買い物ツアーに連れて行ってくれる。
 博物館はとても混んでいる。カメラ持ち込み禁止である。とても残念だ。その分じっくり見てやろうという気持ちがわいてくる。とは言っても2時間ほどしか見学は許されない。ツタンカーメンは入念に見た。美しい。細工がすこぶる凝っている。見飽きない。その棺が入っていたケースもロシアの人形のように幾十にも重なっていた。石だと思っていたのに木だったのにはびっくりした。拓人に是非見せてやりたかったのは石に下書きした絵である。落書きのような,子どもが書いたようなものを見つけることが出来たからだ。中学生くらいの子どもたちが遺物をスケッチしている。それを眺めて歩くのも面白かった。もっともっといたかったカイロ博物館であったが,現地ガイドを助けるためのお買い物ツアーに参加しなければ。
 香水の店に連れて行かれた。手持ちのエジプトポンドを使い切るため,店主と電卓で勝負。言いなりでは買わなかった物のせこいなという感想。店員に徳島の彼女持ちがいて,徳島の情報を教えてあげた。ついでに大サービスで阿波踊りもレクチャーしてあげた。隣で見ていた川西のおじさんが「うまいなー」ともらす。「私,徳島ですもの。」
 昼食後キリスト教の残る地区にでかけた。モスクではなく教会へ。拷問道具やその使用方法についても説明があった。イスラムの世界ですごい迫害があったのだろう?街頭テレビに見入る子どもたちの姿や教会の階段の手摺りで遊ぶ子等の姿が今も脳裏に。バベルの塔?の遺構も発掘されていた。その後一番古いモスクへも立ち寄った。サッカーに興じる子どもとバナナ売りの親子が印象的であった。市街地をバスは巡りカイロの人々の生活を垣間見ることが出来た。
 カイロ空港は4度目ともなるとなじみ深くなってくる。突然添乗員から「猪子さん日本人に見えません。」などと声をかけてもらう。このことに関しては前述したが,プロの目からそう見えるのなら間違いは少ないのだろう。日本人の老人からも「エクスキューズミー」などと声を掛けられた。郷に入っては郷に従えではないが,郷に入っては郷の顔となるのだろうか?さて,土産としてのアルコールは確保しているものの,機内でのそれが無い。ウイスキーは飲みかけのものがある。ビールもハイネケンを見つけ2本買った。ワインも買うのをためらったが,機内で飲みたい。開けてもらえるのか?と聞くと上のビュッフェで開けてもらえるという。エジプトワインも飲みたかったので,買ったものの上へ行けども開けてもらえず。隣のスナックスタンドへ行っても開けてもらえず。1階のレストランで交渉の挙げ句,ワインオープナーはあることはあったが,借してという私の言葉を無視して従業員3人は悪戦苦闘し始めた。開けたことなどないのだろうことが見て取れた。数分を費やし,じれったさのあまり,優しくI'll try it.と声を掛けると,すんなり渡してくれた。ほんの数秒で開けることは出来たのだが,Thank you!というと, それだけか?といいコップを出してきた。仕方がないので天使のウワバミをさし上げた。イスラムなのに飲んでいいのかな?開けたのは俺だぞ。なんて思いながら,数分を楽しんだ。
機内でも,若い時のようにツアーメイトとどんちゃん騒ぎはできず,一人心の中でこの1週間のどんちゃん騒ぎを行った。エジプトワインも悪くはなく,おいしかった。温かい気候のぶどうなのに。帰りの便は寝ようと努力したが,1週間分の未知の世界の情報が興奮状態を引き起こし,眠れなかった。
 行きと比べジェット気流に乗ったのか時速1200KMの巡航速度が出ていた。行きは確か700KM台であったように思う。お陰で12時間余りで関空に着いた。ヨーロッパ方面からの帰りはとても楽である。アンカレッジを経由していた頃はまる1日かかっていたのに。楽になったものである。世界は確実に狭くなりつつある。12時定刻に関空着。ツアーメイト及び添乗員に別れを告げ,税関へ。すんなりと通してくれた。スーツケースを開けてじっくり見てもらえる時間を我が輩は有り余るほど持っているのに。余ったドルを日本円に替え,2時間あまりのバス待ちの時間を日本の(2本)ビールでこの旅の感慨に耽りながら一人時を過ごした。この旅の終わりに。
 でも,いったい,どこが旅の終わりなのだろうか?旅の始まりは?行きたいと思ったときなのだろうか?妻に行きとは反対の得々ターミナルまで迎えに来てもらい,家路につく。土産でいっぱいになったスーツケースを開く。終わりがない。旅の積み重ねが人生。次の旅への第一歩。どこかへ行きたいな。