画像がどこかに雲隠れしてしまいました。トリップアドバイザーに投稿した後でした。.
検索は「人生旅の途上」から
満開のライトアップされた「三春の滝桜」画像パンフレットより。
三分咲きもまた良かった。第一観光客がきわめて少ないことであった。
満開の頃も訪れてみたい。風格・威厳を持った桜である。梶井基次郎ではないが桜の下には死体があるのかも知れない。
妖艶さも醸し出している。 |
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4月7日火曜日
10時にチェックアウト後,富岡製紙場に向かう。パソコンでは町田から西回りのコースを示していた。車のナビは羽田から東回りのルートを示す。諸都内を突き抜けるコースである。二の足を踏んだが,もう走り始めている。行ってしまえ!渋滞に遭遇。秋葉原近辺は下道にまで誘導された。昼過ぎに着くつもりでいたが到着は14時を過ぎてしまっていた。町田回りにすれば良かった。後悔後に立たず。
富岡製糸場は初めて訪れる。こんな辺鄙なところによくも工場を造ったものだ。工場は近代的で診療所まで備えている。ラジオガイドでゆっくりとポイントの説明を聞いていくうち工場立地の要因が理解できてくる。回りに私設の駐車場1回300円があるが,公営の駐車場に入れても2時間で200円であった。
夕食をどうしよう。浜松で餃子を食べているので宇都宮でも餃子を食べてみようと言うことになった。近くはないが仙台でホテルを予約してあったので通り道になる。宇都宮市内に入れどもどこで餃子を食べて良い物やら?思案の末,駐車場に車を止め餃子店を捜すことにした。所さんの笑ってこらえてのマイクピックアップのロケ地の前の魚屋さんで聞いてみる。ドンキホーテの地下に餃子屋があると教えてくれた。教えてくれたように「来らっせ」という宇都宮餃子を幾種類か食べられる店があった。いろんな味を試すことができた。14種類だったろうか?曜日毎に14種類の味が比べられるようになっている。ビールも欲しかったがノンアルコールで辛抱した。餃子の食べ比べは難しい。どの餃子も美味しかった。
高速入り口でガソリン給油をして仙台ウエスタンホテルへと向かった。21時過ぎに到着。近くのファミマで寝酒を購入。アメリカのモーテルを思わせるような大きな駐車場(地下2階)フィットネスや大きなダブルベット。そして観音様の真横に位置する立地がとても面白かった。
4月8日水曜日
朝食はビュッフェスタイルで品数も多かった。まず仙台青葉城に向かう。天気も曇り空から晴れ間も見え始めた。石垣しか残っていないが流石に立派な石垣である。仙台の町並みが見渡せる高台には伊達政宗の騎馬像がある。前に鎮座する狛犬は雄雌の区別があるようだ。ここで岡山から来た中国人の研修生と妻は話し込んでいた。中国旅行のデモンストレーション?泊まったホテルも遠くに白い観音様と共に見ることができる。
仙台と言えば苦い思い出がある。5〜6年前のゴールデンウイークに東北旅行をした時,尋ねども尋ねどもホテルが取れなかったという経験である。塩竃まで車を走らせコンビニ裏の郵便局で一夜を明かしたことがあった。復興工事が始まり様子は変わっているが,国道を外れ海岸に入ってウロウロすると見たことのある建物が存在していた。あの駐車場で野宿した郵便局だった。裏のコンビニは無かった。大きな倉庫も回りに建ち始めている。
松島に向かう。松島の津波の被害は少なかったと聞く。島々が津波の緩衝地として働いたようだ。以前と同じような風景が残っている。コンビニでトイレ休憩。ここから海岸線を大船渡まで走る。前回は平泉に向けて走った。
海岸線を右手に見て北上を続ける。津波の爪痕らしき風景を目にすることが多くなってくる。左手に1階部分が空洞になった2階建ての民家を見る。未だに手を付けていない?何かの事情で手を付けられない?想像するしかない。海岸線はダンプが頻繁に行き交い更地が目に付く。黒く光った真新しい墓石の軍団が目に付く。所々に祈祷所も設けられている。
女川に入る。ダンプは列をなし対向車もひっきりなし。街全体がかさ上げ工事を行っている。かつての生活の場は消え去ってしまう。ほとんどの自治体がかさ上げを選択しているように見える。
南部相馬の鉄塔の回りも土砂で囲まれていく。 陸前高田では巨大なベルトコンベアによって土砂が運び込まれている。どんな街に生まれ変わるのだろう。駅舎や漁業関係の大型施設は生まれ変わっている。工事現場に入る直前には津波によって崩壊した学校がそのまま放置されてあった。
山々が海に沈み込んだリアス式海岸。その稜線を登る度にかつての津波の到達地点を示した大きな看板が設置されている。下る時にも同じ看板を目にする。幾つ尾根を超えただろうか?右側の谷部分では何らかの工事が行われ,左側の工事が行われている隙間を縫って○○家入り口の標識も見て取れる。そこには生活を続けている人々がいる。
大船渡から高速に上がる。津波避難のための道路であろう。(阿南〜高知でも工事が進められている。)道の駅で遅い昼食を摂る。大船渡から花巻東北自動車道で八戸へと,ひた走りに走る。かつて宿泊した二戸を過ぎ,八戸へ。面白い光景に出くわす。道の両側に車が停車しハザードランプを点滅させている。日常の光景なのだろうか?ローソンに入ったが,それにまつわる会話も聞こえてこない。ナビはホテルの前まで誘導してくれた。八戸グランドホテル泊。
4月9日木曜日
朝食は付いておらず,9時頃ホテルを引き上げた。今日は三陸海岸を南下する予定である。南部地方の大規模な工事は目にすることはなかった。ただ津波到達地点の標識だけは大きく目に付いた。久慈市に入る。「海女ちゃん」で一躍有名になった場所である。最北の海女の活動の地である。久慈市は想像していたものより大きくびっくりさせられた。道の駅では久慈市のおおよそのことを知ることができる。秋には大きな祭りも催される。食堂が開く11時まで道の駅で時間を過ごすことができた。
郷土料理の「まめぶ」を「まめぶの家」で食し,「沢菊」というお菓子やでスイーツを買い込んだ。沢菊は後日徳島そごう店にやってきていて話が盛り上がったようだ。
雄大な岩木山を眺めつつ東北自動車道を南下,福島三春をめざす。千年の滝桜と対面するためである。桜は千年を生き続けてきた威厳(自然体)に満ち溢れていた。残念なのは3分咲きだったこと。満開の滝桜を見たかった。夕暮れが迫る。逆に観光客が少なくて良かったのかも知れない。
今日は筑波の宿泊予定である。ナビに宿泊先の電話番号を入力する。筑波ヒルトップホテル泊はナビに振り回された。到着した先が30キロメートル余り離れている。捜せども目的地はない。電話を入れると住所で入力してくれと言う。予定より2時間遅れで到着。不便なホテルであった。
4月10日金曜日
ホテルは朝食付き。市内を巡る。朝から曇天。桜は満開を迎え通りには桜のアーチが・・・。妻の要望でヒトゲノムのモデルを見たいというので科学センターへ向かう。そこにはモデルはなく,つくば市内を徘徊。
またしてもストーカー。村上和雄先生の自宅を発見する。その後職場へも。
私が1ヶ月間閉じ込められた研修センターへも案内することができた。その後,筑波山登山へ。折角ここまで来たのだからと言うことで筑波山に登ることにした。片栗の花が綺麗だそうだ。ロープウエイを使い女体山へ。頂上付近は雪が残りスリッパでは歩けない。そんな私を尻目に妻はすべって転んでしまった。山頂で台湾から来た人たちと写真の取り合いをした。
登山前に筑波山に向かう手前で車が一杯のそば屋を認めていた。下山後,帰り前を通ったので遅い昼食にした。
筑波で給油。今日の宿泊先の甲府に向かう。インターを下りる前にピンクの絨毯を妻が発見した。山梨笛吹の桃畑であることが次の日判明した。ベストイン泊。ダブル6000円?
4月11日土曜日
この日の朝に視野欠損。左目の内側が縦に見えない。旅行の最中仕方がない。欠損部分は運転にも支障が無い。帰って健康保険証の申請をしてからの診察になる。
朝食が付いていた。お皿を出すと料理をのせてくれた。笛吹桃祭りとは知らず昨日妻が認めた桃色絨毯の調査に向かう。笛吹き市内を右往左往。桃祭りらしき場所を数カ所訪ねる。笛吹きの一升瓶に入ったワインはお勧めできない。
再び富士五湖へ。二日も掛けて見られなかった富士山を今日こそはと気合いを入れて河口湖へ向かったが,またしても空振りに終わる。息子へのお土産を物色し富士宮で名物の焼きそばを食べた。
新東名を西へと走る。 再び浜松北インターに寄る。眠気が最高潮に達したためである。熱いコーヒーを飲み再び帰路に着く。湖南市の息子と一緒に夕食をとることになっていたので新名神の「土山」で高速を降りる。2号線を湖南市へと進路を向ける。息子の所へ行くと定番になってしまったがステーキ屋でステーキをほおばることになる。3月初め妹の3回忌で会ったばかりだが,どこかに懐かしさがこみ上げてくる。長いこと会っていないような感じを受ける。
かつては18歳で家を出て東京暮らし。親のすねをかじっていた私だが,立場を逆にすれば親たちの心境が察して取れる。そんな年になったのかとしみじみ思うが,私の今の年齢には父は病の床にあった。
祖母が付きっきりで傍らにいる。今は亡き妹が父の介護をしている。母は介護と仕事の二足わらじ。彼女から仕事を取ったら何もなかったのかも知れない。何のために働いていたのだろうか?自己の確率?ゆとりを持って生きて行けたのに?私だけが優遇されていた。
東北ではもっと悲惨な出来事があった。何万通りもの,それぞれの,いろんな人生が,そこにあった。
3年前の暮れに従兄弟が亡くなり,そのお見舞いの後妹は最近調子が悪いと言っていた。年明け検査。腎臓癌が肝臓に転移。その検査もひどい苦痛を我慢している。2月になって入院を勧められるが抗がん剤は使わず,日々歩いた。「私癌なんよ。がんばるけんな。」と周囲の人々に叫びながら。息子の学校の個人面談でも自分の病状を告げたという。彼女の強さだろうか?
そして,砂にも潜った。びわの葉で温灸をした。旦那も頑張って手当てしてくれている。夏が終わり,腹水がたまり始めた。そのころ妻も体調を壊していて,整体に通い始めていた。土日には一緒に通い始めだした。食事制限をしていた妹だがこの頃より讃岐うどんを食べたり蟹を食べたり,イタリアンや中華,カレー屋にも足を運んだ。整体の後は美味しくものが食べられると言い高知の日曜市にも行った。妻にも大変世話になった。
妹の死・従兄弟の死・母の死・同級生の死・父の死・祖母の死・祖父の死・弟の死・誰とも別れの瞬間に立ち会うことはできていない。
なぜ人は旅に出るのか?
目はやはり網膜剥離であった。手術後10日間の病院暮らしへと。
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